paris55’s diary

人生折り返し女子 プチ介護と日々の楽しみ

敬老の日に お母さん、元気に長生きしてくれてありがとう

晴れの日の裏山の彼岸花。

台風14号、順調に?来ている。

今日は敬老の日。いつもならささやかながら外でお食事しているのに。

 

母に電話。

 うん。朝も昼もごはん、食べたよ。

 新聞読んでたら、眠くなってベッドでうとうとしてたの。

 今日は塾はないの?

 

 今日は敬老の日でお休みだよ。台風すごいのが来てるしね。

 敬老の日なのに、行けなくてごめんね。

 お母さん、元気で長生きしてくれて本当にありがとう。

 

 いやいや。ただ長生きしてもみんなに迷惑をかけたんじゃ、

 ダメだから。薬もちゃんと飲んでるし、食べてるし。

 

 お風呂はちゃんと入れてるの?

 

 うん。入ってるよ。百点満点だよ(笑)。

 

私が骨折していることは、今までの電話で、なんとなく?覚えている模様。

どこを骨折して、仕事や家事のことを尋ねてから、

 大事にするんだよ。私のことは心配しなくていいからね。

 早く治すようにするんだよ。

 

今から11年前アルツハイマー型認知症と診断された頃の母は、

本当に人が変わったようだった。

あれを盗られたとか、これを盗まれたとか、いつも言っていた。

いつも探し物をしていて、それでも見つからないから、

そういう結論になるものらしい。しかも犯人は、たいていお嫁さん。

いつかは、実家で私のブレスレットがなくなり、いくら探しても見つからず。

後日、母のポーチの中で見つかった。その時の母の第一声は、

「私は盗ってない。」

そんなこと、もちろんわかってる。あってよかった。

これも病気のせいだから、と心の中でつぶやいた。

この頃、母も自分への不安で苦しんだだろうが、

母の変化についていけず、私たちもとてもつらかった。

「お母さんなんか、大嫌い。」

と泣く私を、夫は「そんなことないでしょ」と慰めてくれたことも。

 

毎週日曜日、母は私が行くのを待っていた。

私が用事で行けないときは、ほっとしつつ、でも母が待っている

事実がすごく苦しかった。罪悪感に近い感じ。

 

母は生まれ育った関東から、結婚後この地へやってきた。

身内も友達もいない、言葉も習慣も違う土地に来て、

そして、子育てしながら、やったこともない商売をした。

田舎だからよそ者を受け入れない人もいたらしいし、

仕事が忙しくて友達を作る暇もなかった。

「お月様を見上げて、帰りたいって泣いたよ。」

50年以上働き、その間、小さな家を建て、子供を育て上げ、夫を看取り、

店を兄夫婦に預けた。

私を東京の大学にやり、短期だが海外留学もさせてくれた。

いつも「経済力を身につけなさい」と励ましてくれた母。

 

母が「いつもの母」に落ち着いたのは、いつ頃だったろう。

母が最近よく言うのは

「私は今が一番幸せ。Pは近くにいるし、yちゃんは優しいし。」

大学進学時、Pはもう帰ってこない、と覚悟していたそうな。

地元に戻り、母と過ごせる時間を持てて私も幸せだと思う。

父が病気で亡くなったのは、私が27歳の時だった。

親孝行らしいことは何もできず、母のそばにいることが供養、

と思ったが,,,。母とは、認知症発症後も大ゲンカしてる。(笑)

けんかしたとき、母は

「けんかしたっていいよ。娘だもん。」

「一人じゃケンカもできないもの。」

 

一時的に認知症で人が変わったようになっても、

本来のその人らしさがなくなるわけではない。

できないことは少しずつ増えるけれど、その人が身につけている

能力はそうそう失われない、と思う。

母は料理の段取りがわからなくなっていても、

今でも上手にお造りができる。私には無理なのに。

 

足が治ったら、敬老のお祝いをしようね。

台風14号、大きな災害を起こしませんように。

 

   ❤️😊最後まで読んでくださって、ありがとうございます。😊❤️