paris55’s diary

人生折り返し女子 プチ介護と日々の楽しみ

大切な人が「認知症かも…」と不安になったとき

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 10年前、急に性格が変わり、身内に「物を盗まれた」と言い出した母。当時、子供二人はまだ中学生と小学生。仕事と子育て、家事で大忙しの毎日。そこに降ってわいた「もしや?」の不安。私はオロオロするばかり。


 今振り返っても、一番にすることはやっぱり「専門医の受診」。医療の手を借りること、だと思う。「認知症かもしれない」と思うと、風邪で病院にかかるのとはハードルの高さが変わる。本人のハードルと、家族のハードル。もしそうだった場合、両者にとって受け入れるのはとてもつらい。認めたくない思いが、受診を遅らせるかもしれない。でも、きっとガンと同じで、早期発見・早期治療が大切だと思う。

 当時、母は、家族で経営する店で50年近く働いてきた。父が病で他界した後も、自分で自分の生活を支えてきた誇りもある。

「認知症かもしれないから、病院に行こう」なんて言おうものなら、母のプライドは傷つき、ものすごく抵抗するだろう。「私は、ボケてなんかいない!」って。
 
「どうやって受診しようか?」

 兄夫婦と私とで、今後のことや私たちが「どうやって母のために協力していくか」を相談した。母は元々血圧が高かったので、かかりつけの内科の先生に相談することなった。「健康診断に行く」ということなら、抵抗はないだろうから。事前にYちゃんが、かかりつけの内科の先生に相談しておいて、後日、診察を受けた。その上で、大学病院へと、道筋がついた。
 
 大学病院での受診は、1日仕事になる。脳神経内科の待合で診察を待つ。待っている間、受付の張り紙「脳神経内科」の名札に反応されたら、どうしよう、とドキドキ。ただの健康診断だから、ね。問診、テスト、脳のCT撮影、再度診察。待つって疲れるね。幸い「念の入った健康診断」と本人は受け止めていた。「待つって、疲れるのよねー。Yちゃん、忙しいのにゴメンね。」と付き添った姉へのねぎらっていたようだ。お疲れさま。

 そして出された診断は、「初期のアルツハイマー型認知症」だった。完全な治療薬はないが、薬で症状の進行をゆるやかにできることを説明され、「夜、眠れない」というので睡眠導入剤も処方された。

 やっぱり、そうだった。ショックだった。これまで、どんなに打ち消したくても、自分の心の奥底では「お母さんは、たぶん認知症だ」という悲しい確信があった。仕事中、母は注文がわからなくなることもある、とYちゃんから聞いていた。テキパキした働き者で明るい母。何かの間違いであってほしいのに。私のお母さんが、認知症。いつか、私のことも忘れてしまうんだろうか…。あとどれくらいで、忘れてしまうの?いつまで私を覚えていられる?お母さんは働いてばっかりだった。もっと楽しい思い出をいっぱい作りたい。忘れてしまうときを、少しでも遅らせたい。どうしたらいいの?どうしたら…?戸惑いと悲しみとで胸が張り裂けそうだけれど、一方では納得している自分もいた。事実が分かってよかった、と。これからできること、やらなくちゃいけないことを、ちゃんと考えられるから。

 この時も、Yちゃんが言ってくれた。
「私は、血がつながってないから、ちょっと冷静になれる。つらいだろうけど、一緒にお母さんのためにできることをしよう。」
私も一応「長男の嫁」(死語)だけど、こんな風に言いたいものだ。Yちゃんは女神だと思う。本当に見習わないと。そして、お嫁さんとこんな関係を築いてきた母も偉いと思う。

 泣いてばかりもいられない。私たちは「認知症」について調べ始めた。そして、ケアマネージャーさんに関わっていただくことになった。「プロ」がついているというのは、本当に心強い。この時点で「要支援」と判定された。母には、ケアマネさんを「一人暮らしの高齢者を訪問する市役所の人」だと紹介して、面談を受けている。
「まあ、市役所の人も大変ねえ、いちいち年寄りを訪問するなんて。」
ケアマネさんの訪問前には、ちょっと面倒くさそうにそう言いながら、当時から今まで、母は部屋を片付けている。

 第一歩は、やっぱり専門医受診。かかりつけのお医者さんの受診なら、本人の抵抗も少ない。受診を決心するのは、勇気がいる。でも、ここは、淡々と行程をこなすつもりで乗り越えたい。紹介状を書いてもらえば、大学病院での医療費も安くなる。合わせて、介護のプロの手を借りながら、周囲の人間で協力体制を作ることが大切だと思う。
 今のところうまくいっているから、ケアマネさんからも「こんなに進行が遅い人は、珍しいですよ」と言ってもらえる。たとえリップサービスでも、プロに言われると介護する側もやる気がでるものだ。

 読んでくださって、ありがとうございました。